私の生き方(平成の最後にあたり)【4月】
2019/4/30(火)
それなりに年を重ねてくると、「私は、どういう歴史観を持って生きているか」を問うことがふえてくる。
私が生きている世界は、資本主義で「右肩上がり」史観である。
例えばルネサンス期は人間賛美の思想にあふれており、美術史だけを覗いてもラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョヴァンニ・ベッリーニ、サンドロ・ボッティチェッリ、ミケランジェロ、ジョルジョーネ、37才で夭折したパルミジャニーノなど綺羅星の如く出て、今日より明日、明日より明後日に夢を抱かせたものである。
資本主義は、神にすがるのでなく自力成長に目覚めたのです。
一方で私は、親鸞さんを祖とする浄土真宗の阿弥陀仏の他力本願を信じ往生成仏できるものとしていた。
この仏教を史観的に考えると人生は死に向かってゆく道であるとする「右肩下がり」史観である。
仏教は、正法の時代(釈迦の教えが正しく伝わる)から像法の時代(釈迦の教えが劣化して伝わる)そして末法の時代(正しい教えから遠ざかり訳が分からなくなる迷妄の時代)に移ってゆくという考えである。
現在は末法の時代とされる。
こう考えると、どうも仏の教徒として、生きることに全賛成する気持ちにはならない。
こういう風に歴史を俯瞰する見方はあと三つほどあるらしい。
私の好きな「興亡」史観である。
地球上の主役は、いろんな事象に応じて変わるとする考えである。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす。
繁栄することで繁栄の条件を失うという滅びの美学に、感動さえ覚えます。
四つめの「勢い」史観。
いわゆる勝ち馬に乗るという考え、日本人に最も多いのかもしれません。
省エネで賢い生き方だと思いますが、余り与したくありません。
そして最後に「断絶」史観です。
大波乱、大革命、大転換、アウシュヴィッツ、広島、長崎…
もっと逆のぼれば、イエス評価の大転換がありましたね。
イエスは12人の弟子しかいなくて、1人は裏切り者であった。
しかしイエスの死後、ローマ帝国によるイエスへの考え方が激変し、今のキリスト教世界が、出現したのである。
今、全く読めない大断絶が、忍びよってきているのかも知れませんが…
とは言え、断絶史観は、アウト・オブ・クエッションとしておこう。
こう書き列ねると、私の歴史観は、「右肩上がり」(期間限定つき2050年位まで)史観の中に「興亡」があるという二史観折衷である。
こんなんがありかどうか知りませんが、明日を信じて、事業の興隆に力を尽くしていきたいと思います。
理事長 井上 健雄