2005年5月の言葉

 耐えることは力を生む 

 最近、関東から東北にかけて2,200人小中学生の調査において、43%もの子供たちが、日の出、日の入りを見たことがないとレポートしている。

 自然と接することが、本当に少なくなっている。

 これでは、夏の夕日、朝焼けなど分からないではないか。

 こんな句を鑑賞できるのだろうか。

   暑き日を 海に入りたり 最上川(芭蕉)
   朝焼けや 聖(サンタ)マリアの 鐘かすか(誓子)

 その上、テレビコマーシャルは短調を排除している。これも殺伐な社会を生み出す背景にもなっている。
特に、赤ちゃん、子供に聴かす子守唄はシューベルトやブラームスだけでは十分でない。五木の子守唄や島原の子守唄が大事なのだ。短調の持つ切々と心に訴える悲しみ、哀調の旋律が共感する精神を、涙する心を育み、世の中が豊かにするものと思う。ちょっと年寄り臭い。(笑い)

 ここで、中村雨紅の「夕焼小焼」や三木露風の「赤とんぼ」を口遊(ずさ)んでほしい。♯♪♪♭

 親の居ない悲しみ、子供の身空での労働、意地悪等、貧しさと重荷を背負った子供たちが非行に走っただろうか。皆、立派に成長している。苦労は重ねてこそ意味がある。

 もう一つ、古事記の因幡の白兎を辿ってみる。

 隠岐国から因幡国に行くために、ワニザメを騙して渡ろうとして、最後に見破られて皮を剥がれたウサギに、八十神が塩水で洗い日光で乾かせといわれその通りにすると、一層痛くなり泣いている。そこで大国主神が、真水で体を洗いガマの穂に包(くる)まり静かに寝ていなさい、と痛みを取る処方箋を教えてやるというものである。

  こう読むと大国主神の優しさが際立つが、私は八十神こそがこの話になくては成り立たないと思う。

 私説であるが、八十神は遅れて歩いてくる大国主神が救ってやるのを分かっていて、不正に対し一層厳しい試練に合わせたのではないかと考えるのである。

 騙して痛い目に会いすぐ救われるのでは、本当に救ったことにならない。一層の重荷を背負ってみて、人いやウサギは自分の行動の非と人の優しさが身に沁むのである。

 少し話は飛ぶかも知れないが、私は学生時代弓道をやっていた。

 その時「的付け」といって標的よりも少し上の所に向けて射ると正鵠を射る。この少し上を限界と思っている状態に加えたら、人はどうなるのだろう。

 限界というのは、試さずして分からない。出来ることだけをしていては、能力の成長はない。
力への意思を持とうではありませんか。

 力とは、創造する力であり、自己をコントロールすることである。

 もっと力を出して、社会に活気と勇気を与え、会社には少々の利益を齎そうではありませんか。

NPO法人 イー・ビーイング
理事長 井上健雄